◇宮島紀行

宮島にまつわる小話を7つのキーワードで紹介します

 

※下のタイトルをクリックするとその小話に飛びます

□空海と宮島

□平清盛

厳島神社創建ものがたり

□厳島合戦

□秀吉と千畳閣

□伊藤博文への手紙

□世界遺産

 

 

空海と宮島

 

弘法大師、空海。

日本各地には空海が遺したさまざまな伝承が残っています。

宮島・弥山もその一つ。ここでは空海と弥山の関わりを探っていきます。

 

空海は、弘法大師のおくりなで知られる奈良・平安時代の僧。

この「弘法大師」という諡号(しごう・おくりな)は空海の死後に送られたもので、

空海は諸国をめぐり人々の苦悩を解決し、その時代貧しく文化を学ぶことのできなかった大衆に向けても教えを説きました。

空海は室戸岬の洞窟で修業をしているとき悟りを開いたといわれ、洞窟の中で目にしていたものが空と海だけであったため空海と名乗ったといわれています。

空海の故郷四国では、彼が修行時代に遍歴した霊跡が「四国八十八箇所」と称され霊場として残り、今でもその霊場巡りは強い人気を誇っています。

 

彼が生きたとされる時代は宝亀5年(774年)~承和2年(835年)。

奈良時代と平安時代という時代の狭間でした。

 

では、空海と宮島との関わりはいつごろになるのでしょうか。

それは空海が唐の長安にわたり帰京の途に就いた時期になります。

 

空海は各地で修業をしながらも、延暦23年(804年)に正規の遣唐使として唐の長安に入り、

その後大同元年(806年)に唐から戻り都へ帰ります。

その途中、空海は宮島を見ることになります。

宮島を見た空海はそこで島の霊気を感じ取り、「ここは霊場に違いない」と宮島弥山に霊堂を建てました。現在の弥山本堂(空海が百日間の求聞持修法を行った場所)、霊火堂などがそれにあたり、使われた火が現在も「消えずの火」として霊火堂で燃え続けています。

 

空海と弥山とをつなぐこの伝承は史実としては確認されていませんが、

今なお宮島信仰の歴史の深さをあらわすものとして語り継がれています。


 

平清盛

 

皆さんは平清盛という人物に対してどんなイメージを持っているだろうか。

近年では大河ドラマの放映もあり好印象になっているだろうか。

 

だが、平清盛には“悪人”のイメージがつきまとう。

それは『平家物語』によるものが大きい。

“平家にあらずんば人にあらず”のフレーズが表すように平家が栄華を極めた時代の描き方とその滅び方にいいイメージがないから平清盛にはあまりいい印象がない。

 

それもそのはずだ。

名作とも言われている『平家物語』は当然平家が滅んだ後に書かれている作品だ。

つまり源氏の世だ。

平家の“諸行無常”を描いていても時代の要請からは自由ではないだろう。

 

ただ、本当に平清盛は“悪人”だったのかー。

 

平清盛は貴族の世の中から武家の世の中へと大きく転換をもたらした張本人である。

保元の乱、平治の乱を経て武家が初めて天皇のいる朝廷・内裏へのを許された。

当然、当時の貴族からは“異分子”として戸惑いと違和感があったに違いない。清盛が嫌われていたのは無理もない。何しろ内裏の歴史は四百年を超える。岩盤のような歴史に清盛は入り込んで時代を変えたのである。

 

そして後世の鎌倉時代からは“敵”として扱われる。

源氏は平家を打倒することで政権を樹立したのだから“敗者”である平家が“悪者”として評されるのもまた世の習いだ。

 

実際の平清盛を彼の残した歴史的事実を並べてみることで見てみよう。

清盛は平治の乱を経て、ライバルであった源氏を蹴落とすことに成功した。

その時に清盛は当時まだ子供であった源頼朝を鎌倉に追放している。

結果、この裁定が平家の滅亡を招くわけだが、清盛という人物はここで子供を殺すことをしない人物であったことが分かる。

あの源義経も同様だ。清盛はここでも当時の“牛若丸”を生き延びさせている。

 

このイベントの舞台でもある厳島と清盛をめぐるエピソードでも同じだ。

彼は当時荒れていた厳島神社を再建した。その姿が現在の厳島神社である。

神社については別稿に譲るが清盛が厚い信仰心を持っていたことは確かだ。そこに平家ならではのカラーが表現されているから今の厳島神社や平家納経の独自性がある。

 

平清盛が政権を担い、平家物語が“栄枯盛衰”と言った栄華は実のところ400日強である。

わずか一年ちょっとの話だ。

それが現在まで続く“悪人”のイメージをもたらしている。

 

それは逆に言えば、いかに平清盛が時代に強いインパクトを与えているのかということの裏返しなのかもしれない。


 

厳島神社創建ものがたり

 

 厳島神社の歴史は、平清盛が社殿を整えた仁安3年(1168年)頃よりさらに遡った弘仁2年(811年)年に文献上始まります。

ここでは厳島神社創建についてご紹介したいと思います。

 

皆様は厳島神社の「東回廊」の入り口(現在の拝観入口)に石燈篭があるのをご存知でしょうか?

実はこの石燈篭の笠の部分をよく見ると、それぞれにブロンズ像のカラスがとまっています。

燈篭自体は厳島神社の歴史に比べそれほど古いものではなく、1901年(明治34年)につくられたもので、

石燈篭の上にブロンズ像のカラスが配されるのは例がないそうです。

 

では、このカラスの像はなぜここに設置されたのでしょうか?

回廊の入口にあるのだから何か意味があるはず...!!

 

実はこのカラスが厳島神社創建に深く関わりを持っているのです。

 

その関わりは、宮島に伝わる「神鳥(おおからす)伝説」に残されていました。

 

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ある日のこと。

飛鳥時代の安芸の豪族であった佐伯鞍職(さえきくらもと)と言う人物が、家来を連れて大野の瀬戸で魚釣りをしていました。

すると西の方から立派な船が近づいてきて、乗っていた立派なお方が「汝は誰か?」と問いかけたのです。

鞍職は「私は佐伯鞍職という者で、この島に古くからいる者です。」と答えたところ、「この島が気に入ったのでもらいたい。」と言われました。

この人は普通の人ではないと感じ、「わかりました、差し上げましょう」とお答えしたところ、

「実は私はこの島の神であり、この島に鎮まりたいと思っている。そこを探し出して御殿を造ってほしい。」とおっしゃいました。

鞍職は大変ありがたく思い、「承知しました。しかし神の証拠を見せてほしいのです。」とお答えしたところ、

「お前が都に上ると、空に不思議な星が現れ、皇室の御殿の中に、榊の枝を咥えた鴉が入るであろう。それが証拠だ。」とおっしゃいました。

そこで鞍職はこの「厳島大神」を御床岩(みとこいわ)にお遷しして、仮の御殿を造ったのです。

鞍職が推古天皇に事の次第をお伝えしたところ、大神様のお言葉通りのことが起こったため推古天皇は鞍職に御殿を造るように命じられました。

鞍職が帰った後、改めて「大神様はどのような所がお気に召しますか?」と大神様にお伺いすると、

「私が高天原から連れて来た神鴉(おおからす)が案内するであろう。」とおっしゃいました。

そこで鞍職は新しい船を造り神様のお供をし、この島の浦々を巡って養父崎の沖に来たとき、粢(しとぎ)を海上に浮かべてご祈祷をしました。

すると弥山から二羽の神鴉が飛んで来て、粢団子を咥えて飛んだためその後を追いかけたところ、脇浦まで来たときに神鴉が見えなくなったのです。

その時大神様が「実は、私はここが良いと思うのだがお前もそうに思うならここへ御殿を造りなさい。」とおっしゃり、

鞍職はこの場所こそが神の宿る場所だと考え、厳島神社最初の御殿を造ったと言われています。

 

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宮島には以上のような興味深い伝説が残っています。

厳島神社ではこの伝説に基づいた行事、御島巡式(御鳥喰式)(おしまめぐりしき〈おとぐいしき〉)が今でも行われています。

 

話の真偽は定かではありませんが、知っていると面白い話ですよね☆

ぜひ東回廊入口のカラスにも目を向けて見てください!

 

 

 


厳島合戦

 

つわものどもの夢に思いを馳せる~厳島合戦に思う~

 

戦国期の合戦、いわゆる「いくさ=戦さ」は歴史好きの中でも人気のテーマだ。

宮島においても「戦さ」があった。それも日本三大奇襲戦のひとつと言うから、さすがである。

 

さて、この「厳島合戦」は1555年10月の出来事というので、今から463年前。

安芸の国、吉田の小さな国人領主に過ぎなかった毛利氏が、メジャーデビューを果たしたエポックメーキングな「戦さ」だ。

今の時代、古戦場は地形が変わっていたり、当時の雰囲気がわからないところも多いが、

この宮島においては非常にリアルに当時の空気感を味わうことができる。

 

毛利元就の軍勢は4千人、対する周防の戦国大名、陶晴賢の軍勢は2万人。

圧倒的な戦力の差を埋めるのは、狭い場所で戦うしかない。

そう、桶狭間の合戦において、強大な今川氏を破った織田信長と同じ発想だ。

戦いの経緯、内容についてはご専門に譲るとして、当時の空気感を味わうことをオススメのポイントとしたい。

毛利氏の城は、現在の宮島桟橋から徒歩3分、「要害山」と呼ばれる小高い丘の上にあり、「宮尾城」と呼ばれていた。

ここからの眺めは宮島の町家から、厳島神社の大鳥居までを一望する絶景。正面に「塔の丘」と呼ばれる五重塔の建つ丘があり、ここがまさに陶氏の本陣。

お互いの顔まで認識できそうな距離感。

宮尾城は当時、三方を海に突き出した半島形状。

そして厳島神社に至る海岸線は現在の表参道商店街あたりであったであろう。

毛利本隊が上陸した包ヶ浦の海岸、山越えをした「博打尾」と呼ばれる尾根づたい。

早朝、陶氏本陣をめがけ駆け下った厳島神社背後の急峻な山道。

厳島神社前の海上を彩ったであろう水軍。

そして追い詰められて散っていった駒ヶ林や西方の海岸線。

想像してみてほしい。この地に立って。

 

対岸の旧跡を訪ねてみるのもおすすめしたい。

毛利の軍勢が台風の中を出発したという火立岩、厳島神社の外宮である地御前神社、

この地域を治める拠点であった桜尾城跡は重臣である桂氏の名前をとって「桂公園」といい、市民の憩いの場所となっている。

いずれも広島電鉄沿線にある。

 

海を見ながら、ゆっくり歴史に思いを馳せれば、戦国の世にタイムスリップしたひと時を過ごせそうだ。


 

秀吉と千畳閣

 

歴史上でも最も有名な人物の一人として数えられるであろう豊臣秀吉。

農民出身でありながらも天下を極めた秀吉が、なんと宮島に建立したのが「千畳閣」と言われています。

宮島島内でももっとも大きな建物とも呼ばれる千畳閣と秀吉の関わりを探ってみましょう★

 

Q:千畳閣ってなに?

A:豊臣秀吉が天正15年(1587年)、戦で命を落とした武士を弔うため経典を納める大経堂として建立した建物です。

⇒\CHECK/畳857枚分の広さがあることから「千畳閣」と呼ばれるようになったようです!実際に1000枚ではないんですね…

 

Q:なぜ壁がないの?

A:秀吉の死により工事が途中で中止され、現在も板壁も天井版もない未完成の状態となっています。

⇒\CHECK/経堂として建てられたとのことですが、現在梁の部分には経典らしきものが多々見受けられます。

 

Q:豊国神社ってなに?

A:豊国神社の通称が千畳閣となります。

明治の初めには当時本尊であった釈迦如来座像が神仏分離令(神と仏を区別して考え、神社と寺院を分けること)によって大願寺へ遷され、新たに秀吉公と加藤清正公が祀られることとなり豊国神社となりました。

現在は厳島神社の末寺として、秀吉公と清正公を祭神として祀っています。

 

千畳閣の軒瓦には金箔が押してあるところもあり、完成していれば華やかで荘厳な桃山文化を取り入れた大経堂となっていたはずです。

豪華絢爛な千畳閣と朱が映える厳島神社が並ぶ光景はどのようなものとなっていたのでしょうか。

 

また、宮島でも少し高い場所で、秀吉はなぜ厳島神社を見下ろす形で千畳閣を建てたのでしょうか。

どんなことを思っていたのでしょうか。何を感じていたのでしょうか。

 

きっと秀吉も千畳閣より星空を見ていたはず。

430年前の星空はどんなものだったのでしょう。どんな人が生きていたのでしょう。

 

こんなことを考えながら星空を眺めてみると、秀吉の新たな一面が見えてくるかもしれませんね★


 

伊藤博文への手紙

 

<伊藤博文と弥山>

 

日本における“観光旅行”っていつ始まったのでしょうか?

世界初の“観光旅行”を取り扱う会社はイギリスで明治時代に誕生したと言われています。

 

伊藤博文元勲へ

 

伊藤さんが弥山と出会ったのはいつなのでしょうか?

今の私たちには初代総理大臣である伊藤博文さんが宮島弥山を敬虔に信仰していて登山をされていたと言う話はどのガイドブックにも書いてあります。伊藤さんは弥山山頂からの「絶景」を愛していたとのこと。これってつまり我が国における最初の「観光旅行」と言えないですか?

 

「日本三景の一の真価は山頂の眺めにあり」

 

このセリフは観光の楽しさを教えてくれる名言だと思います。

私たちはその“眺め”をとても素晴らしいものだと思ったので、弥山をイベントの舞台として選びました。

伊藤さんは夜の弥山を堪能しましたか?

昼間の景色は確かに素晴らしいです。その素晴らしさは万国共通なのか、世界中から弥山山頂の魅力を楽しみに宮島を訪れています。ですが、“夜の弥山”からの景色はあまり語られることがありません。私たちは伊藤博文公が見ていないかもしれない“夜の景色”を多くの皆さんにご覧いただきたいと思っています。

 

それもこれも伊藤さんが弥山という神聖な山を“観光の場所”に大きく変換してくれたから出来ることなのです。


 

世界遺産

 

平成8年(1996年)に厳島神社がユネスコ世界文化遺産に登録されました。

世界遺産に登録されるには6つの登録基準があり、そのうち4項目についてを満たす必要があります。

 

1、「人類の創造的傑作」創造的な才能を表す傑作

2、「価値観の交流」建築や芸術、年の構成や警官の発展において、ある時代や地域における人類の文化的価値観の交流の形跡を示すもの

3、「文化的伝統、文明の伝承」ある文化的な伝統や文明の貴重な証拠となるもの

4、「伝統的集落、環境とのふれあい」歴史上の有意義な時代を示す優れた建造物や建築物群、景観の例となるもの

5、「建築様式、建築技術、科学技術の発展段階」ある文化を代表する電的集落や土地利用の典型的な例で、消滅の危機にあるもの

6、「出来事、伝統、宗教、芸術的作品、文学的作品との関連」世界的に著名な事件・伝統・宗教・芸術的作品・文学的作品との関連」世界的に著名な事件・伝統・思想・芸術作品・文学的作品と密接に関係するもの

 

厳島神社は以上のような基準を満たし世界文化遺産に登録されています。

私は1の「人類の創造的傑作」という表現が気に入りました。

厳島神社の建築美や建築技術は現地に行けば存分に味わうことが出来ます。

ただ、ここで私が想像する“想像的傑作”というのは宮島と神社の総合美です。

厳島神社を空から眺めるのです。

あの大鳥居は誰を迎えるものなのでしょうか?

厳島神社の奥にある弥山こそが奥宮なのです。

人が造った建物はそれだけで完成ではなく、弥山を中心とした宮島こそが神社だという発想なのです。

平清盛が見た景色は一体どれだけのスケールだったのでしょうか?

自然と建築の一体となった調和。それを朱色としたのにも驚きです。決して自然に溶け込むのではなく、だが自然と一体となった構図なのです。

まさに「人類の創造的傑作」と呼ぶのにふさわしい建築物ですね。

 

そして私たちがこの冬に出逢いたい場所こそが弥山です。

ぜひあの鳥居から弥山の山の上へ。。。

そこではきっと平清盛が見たかったスケールでの物語に出逢えるのではないでしょうか。